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このページの内容は準備段階のものです。数学書房「考える線形代数」をお買い求めください。 8章練習問題 <8-6. 置換とアミダクジ|8章練習問題解説(未作成)> <8-6. 置換とアミダクジ|8章練習問題解説(未作成)>
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靖国参拝問題とは 靖国神社とは 中曽根首相が参拝を中止した経緯 A級戦犯合祀-松平宮司の言 小泉首相参拝 天皇はA級戦犯合祀されたがゆえに参拝を中止されたのか?- NO 外交カードの一つ 冤罪戦犯の遺書 The intention of PM Abe s visit to the Shrine 米国に失望~鍛冶俊樹の軍事ジャーナル、より~ アメリカの反応・続編 - テレ朝が、でっち上げの靖國報道 中国が靖国参拝を批判しはじめた原因が朝日新聞という説について 「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について 2014/1/2 川端祐一郎
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このページでは下記2点を主な問題点として指摘し、またそれぞれについて改善案を提案します。 ※現在(10/29)編集途中の箇所が多くあります 主な問題点 ①虚偽申告疑惑 ②イメージを損ねるタイトル詐欺 ■改善案の提案 ■10/31タイピー氏概要欄 ■動物の法律
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このページの内容は準備段階のものです。数学書房「考える線形代数」をお買い求めください。 1章練習問題 <1-4.内積の諸公式|1章練習問題解説> 01-13.jpg 01-14.jpg 01-15.jpg <1-4.内積の諸公式|1章練習問題解説>
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このページの内容は準備段階のものです。数学書房「考える線形代数」をお買い求めください。 9章練習問題 <9-11. クラメルの公式|9章練習問題解説(未作成)> <9-11. クラメルの公式|9章練習問題解説(未作成)>
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「東京都青少年問題協議会」とは、この条例改正案を発案した東京都の諮問機関です。 この協議会の議事録には、構成委員による「差別」とも取れる発言が記録されています。 第28期東京都青少年問題協議会・議事録 http //www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/09_28ki_menu.html 第28期東京都青少年問題協議会 第7回専門部会(2009年06月25日) http //www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b7giji.pdf 第28期東京都青少年問題協議会 第8回専門部会(2009年07月09日) http //www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b8giji.pdf 大葉ナナコ(日本誕生学協会代表理事) 「酷い漫画の愛好者達はある【障害】を持っているという認識を主流化していくことは出来ないものか。」 「性同一性障害と同じく持って生まれた嗜好だという事で、子供に対する性暴力漫画を好む人達を放免とするのであれば、 彼らは【認知障害】を起しているという見方を主流化する必要があるのではないか。」 (『第28期東京都青少年問題協議会 第8回専門部会』のP28~29ページより抜粋) 新谷珠恵(東京都小学校PTA協議会会長) 「アニメ文化やロリコン文化が性犯罪を絶対に助長している。自主規制に頼れないならば、規制する仕組みを作っていくべきだ。」 「雑誌・図書業界の為にも、きちんとした規制をしてあげる事が、悪質な出版社が淘汰されていくという事にもなる。」 「何で実在しない児童だと許されるのか全く理解出来ない。これは女性蔑視と同じだ。」 「漫画家団体に対して説明や調査データを示す必要も無いくらい規制は当たり前の事だ。」 (『第28期東京都青少年問題協議会 第7、8回専門部会』より抜粋)
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このページは『問題点が多いのはわかったけどプレイしてないからいまいちピンとこない』 という人のために他の作品でゼスティリアを例えたレスを纏めるページです。 人によって捉え方は様々であり正確に例えられているとは限らないのであくまで参考程度に閲覧して下さい。 ・テイルズオブシリーズ例1(テイルズオブシンフォニア) 例2(テイルズオブジアビス) 例3(テイルズオブファンタジア) 例4(テイルズオブヴェスペリア) ・シリーズ以外例1(ソードマスターヤマト(ギャグマンガ日和)) ・テイルズオブシリーズ 例1(テイルズオブシンフォニア) +... コレット「さよなら・・・ロイド」 ロイド「今までありがとなコレット」 コレット、天使疾患で永久離脱 リフィル「ゼロスを私たちの旅に誘わなくて?」 ロイド「え、突然どうしたんだ先生?」 ジーニアス「僕も同意だよ。世界再生の旅には相応しい神子になると思う」 ロイド「ジーニアスまで…」 ジーニアス「神子の宿命を受け止め、理解できる真の仲間だよ」 ロイド「真の仲間か…」 しいな「良いんじゃないかい?」 リフィル「ゼロスの力はコレットを上回るわ。コレットの時のように天使疾患でお互い苦しむこともないと思うわ」 しいな「コレットにはアイツほどの才能は無かったからねえ」 ゼロス「弱けりゃ裏切るぜ。例えそれがお前らだろうが、クルシスだろうが、レネゲードだろうがな」 ロイド「アハハ!」 ジーニアス「ゼロスが天使疾患にかからない理由が分かった気がするよ」 プレセア「ロイドさん並に面白い人です」 リフィル「あなた、嘘がないのね」 しいな「昔からそうさ、こいつはね」 例2(テイルズオブジアビス) +... ルーク「俺は悪くねえっ!俺は悪くねえっ!おまえらだって何もできなかったじゃないか!俺ばっか責めるな!」 ジェイド「…ブリッジに戻ります。ここにいると、馬鹿な発言に苛々させられる」 ナタリア「変わってしまいましたのね…記憶を失ってからのあなたは、まるで別人ですわ…」 イオン「あなたの言うとおりです、僕は無力だ。だけど…」 アニス「イオン様!こんなサイテーな奴、ほっといた方がいいです」 ガイ「ルーク…あんまり幻滅させないでくれ…」 ティア「少しはいいところもあるって思ってたのに…私が馬鹿だった」 ミュウ「いままでありがとうですの、ご主人様...」 ルークはユリアシティにて永久離脱 ナタリア「アッシュをこの旅に誘いませんこと?」 ガイ「どうしたんだ?突然」 ティア「私も同感よ。私たちにはいい仲間になると思う」 ガイ「ティアまで...」 ティア「預言に書かれていた、真の『聖なる焔の光』よ」 ガイ「真の『聖なる焔の光』...」 アニス「いいんじゃない?」 ジェイド「アッシュの第七音素を操る能力は、ルークのそれをはるかに上回ります。ルークの時のように、制御出来ずに暴走することもないでしょう」 アニス「それに、リーダーが馬鹿だと面倒くさいのもわかったし~」 例3(テイルズオブファンタジア) +... チェスター「もちろん俺も行くぜ!」 アーチェ「なーんか弱そ~」 ミント「…そうですわね」 クラース「確かに今の我々の戦力になりそうにないな」 クレス「すまないがチェスターは現代で待っていてくれないか?」 例4(テイルズオブヴェスペリア) +... スレイ→フレン、ロゼ→ユーリで例えると 1.ユーリが次々と悪人を暗殺 2.フレンがそれを咎めるが「これしか方法ねぇだろ」と言い負かされ黙認 3.暗殺に立ち会っていくうちにフレンも覚悟を決め命を奪っていく決断をする 4.フレンがアレクセイに剣を突き立て止めを刺す ・シリーズ以外 例1(ソードマスターヤマト(ギャグマンガ日和)) +... (本スレPart433の892を一部改変) 全てを終わらせる時! アリーシャ「チクショオオオ!くらえマルトラン!翔破裂光閃!」 マルトラン「さあ来いアリーシャ!私は実は槍で一回刺されただけで死ぬぞオ!」 マルトラン「グアア!蒼き戦乙女と呼ばれる私がこんな小娘に・・・反吐が出るぞオオオ!」 サイモンの幻1「マルトランがやられたようだな」 サイモンの幻2「フフフ・・・奴は終盤ボスの中でも最弱・・・」 サイモン「人間ごときに負けるとは顕主配下の面汚しよ・・・」 スレイ「フォエスメイマアアア!」 サイモン「グアアア!」 スレイ「やった・・・ついにサイモンを倒したぞ・・・これでヘルダルフのいるカムランへの扉が開かれる・・・」 ヘルダルフ「よく来たな導師スレイ・・・待っていたぞ・・・」 スレイ「こ、ここがラスダンだったのか・・・感じる、マオテラスの穢れを・・・!」 ヘルダルフ「導師よ、戦う前に1つ言っておくことがある。 お前は私を倒すのに「ヒロイン」が必要だと思っているようだが・・・別に居なくても倒せる」 スレイ「な、なんだって!?」 ヘルダルフ「そして2国の最大の脅威であった北の大国は火山が噴火したので北方へ移住していった。 後は私を倒すだけだな、クックック」 スレイ「フ、上等だ 俺も1つ言っておくことがある。 この世界にはドラゴンを浄化する方法があるような気がしていたが別にそんなことはなかったぜ!」 ヘルダルフ「そうか」 「うおおお行くぞおおお!」「来い導師!」「「獅子戦吼!!」」 スレイの情熱が世界を照らすと信じて・・・! Thank you for your playing!
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ただ問題を解くだけでは実力は伸びない! 勉強のやり方がわからないから「とりあえず問題集をやっとこう」みたいな勉強のし方をしている人はいませんか?問題をたくさん解いとけば何とかなるだろうと思っていたら大間違い。何もやらないよりはマシといった程度にしかなりません。どんなに素晴らしい道具も使い方を誤れば役に立ちません。練習問題の目的とやり方を理解して実力アップにつなげましょう。 練習問題を解くのは 一、自分の理解度を確かめる 二、応用力をつける 三、問題に慣れる、定着させる この三つが大きな目的です。 理解度を確かめる まだ基礎ができていないのに練習問題をやってもあまり意味がありません。まずは基本となる事柄をしっかりノートにまとめる、そしてどれだけ理解しているかを確かめるために基本問題に取り組む、理解できていない事柄があればまたその部分をまとめる。これを繰り返す。これが理解度を確かめるための練習問題のやり方です。 練習問題の間違えたところが大事なところ。それを見つけるために問題をやると考えてください。答えあわせをして×があれば、それがわかるまで復習しましょう。けっして問題をやりっぱなしにしないことが重要。 応用力 どの教科でも多少はありますが、特に理科や数学の応用問題。見たことの無いタイプの問題に初めて取り組むとき、「どうやって解こうか?」「どう考えればいいのか?」「どの法則(定理)を使おうか?」と考える。この頭の働きが「考える力」をつけるために非常に大切なんです。 応用問題に取り組んで、見たことの無いような問題にぶつかったときはチャンスです。これを考えて解くことで着実に実力がアップしていきます。難しいからと簡単にあきらめて、「解説見て解き方憶えちゃおう」なんてことの無いように。たとえ解けなくても説く方法をいろいろ考えることが大切です。どうしても解けなければその問題はノートに写してとっておいて、実力をつけてから再チャレンジしてください。 ただし、基本がしっかりしていないのに応用問題を解いてもあまり意味がありません。しっかり基本を身につけてから挑戦しましょう。 慣れる 英語や国語の長文読解は「慣れる」ことで読解力があがり、読む速さも速くなります。ただし問題に慣れるのではなくて長文を読むことに慣れるための練習が必要なので、問題文だけ読む練習をして、問題は解かなくてもかまいません。 それ以外の教科では問題に慣れたからといって実力が上がるわけではありませんが、習ったばかりのところは基本問題を繰り返すことで記憶に定着して忘れにくくなります。また、パターンに当てはめれば解けるような問題はなれることで解きやすくなります。 ここで一つ注意しなければいけないのはパターンに慣れれば慣れるほど、パターンに当てはまらない問題(応用問題)を解く力は弱くなります。数学では「簡単な問題ばかりたくさん解いていると、難しい問題が解けなくなる」などとよく言われます。基本をしっかり定着させたら簡単な問題ばかりせずに応用問題にも取り組むようにしましょう。 まとめ 基本問題・・・自分の実力を確かめるためにやる。間違えたらその部分を理解するまでしっかりノートにまとめる。間違えたところこそ大事なところ。 特に、習ったばかりのところは基本問題をしっかりやって定着させる。 応用問題・・・基本問題ができるようになったら挑戦してみる。正解を出すことより、解き方を考えることのほうが大切。できなかった問題はノートに写しておいて再チャレンジ。 基本ができていないのに応用問題をやっても意味が無いし、基本ができているのに簡単な問題ばかりやるのも実力が伸びません。常に自分の実力・理解度を確かめて練習問題をしましょう。
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視角の問題 「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」という映画がある。天才チェリストでありながら、若くして筋萎縮性側脊硬化症という不治の病に倒れ、悲劇的な最後をとげた実在の人物を描いた映画で、日本でも話題になった。この映画はジャクリーヌ・デュプレの苦悩を描いた映画として理解されたために、臨床心理学の専門家も強い関心を示した。しかし、その理解の仕方は、教育学とは異なるものを感じさせることが多かった。 二人の仲のよい姉妹、ヒラリーとジャクリーヌは幼いころから音楽の才能を発揮した。姉のヒラリーはフルート、妹のジャクリーヌはチェロで。最初は姉が一歩抜きんでていたが、やがてジャクリーヌが姉を追い越し、その差は大きく開いてしまう。姉は結局音楽大学まで進んだが、音楽の道をあきらめ、結婚生活に入り、ジャクリーヌは天才チェリストとして16歳で華々しくデビューする。しかし、映画で描かれるジャクリーヌは、華やかな活躍をする一方、フロイトも知らないほどの教養の欠けた人間、そして遠くモスクワまで勉強に行ったのにホームシックにかかり、チェリストなどになりたくない、と世界最高のチェリストである先生に語る歪んだ人間として描かれる。そして、その究極として話題になった場面がでてくる。天才ピアニストのバレンボイムと結婚したが、夫婦の間は冷えており、演奏旅行から姉のところに逃げてきたジャクリーヌは、姉の夫とセックスをさせてくれと頼み、姉夫婦は悩みながらもそれを受け入れる。そして、発病してバレンボイムに裏切られた彼女は寂しく息を引き取り、それを車の中でニュースとして知った姉が慟哭する場面で映画が終わる。 この映画の紹介を臨床心理学者の鑪幹八郎氏が「臨床心理学」1巻5号(2001年9月)に載せている。(「演奏家の表と裏 映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」」) ジャクリーヌは天才であると同時に心に深い苦しみを負った存在であり、もてはやされなんでも手にはいる生活をしていた彼女は、幸福な姉夫婦を「羨望」し、そのために電撃的にバレンボイムと結婚するがうまくいかず、姉の夫を求め、姉夫婦の関係もおかしくなり、またジャクリーヌも精神的に破綻していって、悲惨な死を迎えるというようにまとめ、メラニー・クラインの「羨望」概念の典型として理解している。 この映画理解の特徴は、文字通り「ほんとうのジュクリーヌ・デュプレ」が描かれており、描かれたジャクリーヌを解釈しているというところにある。なるほど、デュプレは姉に羨望を感じていたんだ、その裏返しとしてバレンボイムと結婚したのだ、しかしそれは満たされない結婚で羨望の強さから自分だけではなく、姉夫婦まで追い込んでいったのだと。この映画は事実とはかなり違う場面がある。実在の人物が描かれ、しかもその死からそれほど年月が経っていないのだから、こうした事実は事情をよく知る者にとっては不可解だが、そのような事実の詮索をすることはやめておこう。 しかし、教育学の立場からみると、このような臨床心理学者の解釈は基本的に違和感を感じる。 ある作品を解釈する際、教育的行為の中では「話者」という存在を常に、そして最初に意識する。話者とは作者のことではない。多くは作者が「話者」だが、もちろん違う場合もある。話者が作者と異なるときには、双方の位置関係が異なる。「話者」とはその作品を一人称で語り、見ている者のことである。 古池や 蛙飛び込む 水の音 誰もが知っている芭蕉の有名な俳句だが、ここにはもちろん、誰も人は登場しない。しかし、話者が芭蕉であることは誰でも知っている。では、芭蕉はどこにいるのか、季節や時間帯はいつなのか、こうした基本的なことを俳句から確認することができるし、また、歴史の知識を動員して、芭蕉の当時の状況を知ることもできる。そして、「話者」たる芭蕉がどういう状況で見ているのか、そしてどのように語っているのかを確認しておくことは、作品の理解にとって、非常に重要である。 では、この映画の「話者」は誰だろうか。この映画の原作は、姉のヒラリーと弟のピアスの往復書簡集である。そして、映画化に際しては主に姉が関わっている。映画の本当の題名が「ヒラリーとジャクリーヌ」とされていることでわかる。つまり、「話者」はヒラリーであり、映画には登場しないが、弟も隠れた話者である。しかし、主要な「話者」が姉であることはゆうまでもない。このことは、映画で描かれているのは、「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」ではなく、「ジャクリーユを通したヒラリー」の心象なのだということを示している。映画は小さな姉妹が海岸で遊ぶ場面から始まり、ジャクリーヌの死をラジオで知ったヒラリーが泣く場面で終わっている。若くして天才チェリストとして大成しつつあるジャリクーヌに対して、音大の修了試験でみっともない演奏をするヒラリー、姉の夫とベットをともにし、満足そうに起きてくる妹に悲しげなまなざしをむける姉、このように、重要な場面でかならずヒラリーの悲しみが出てくる。「話者」を忘れた観衆は、ここで妹思いの姉の温かさを感じるかも知れない。 しかし姉の感情は決して妹への単なる思いやりだけではなく、もっと複雑な嫉妬、怒り、羨望という感情がいりまじったものである。臨床心理学が精神的な問題を抱えた人たちを対象とし、その克服のための方法を構想し実践するための学問であるとするならば、具体的にこの事例でいえば、クライアントはジャクリーヌではなく姉のヒラリーであるはずである。ヒラリーの癒しのための作品であると考えると、この映画のさまざまな場面がとても合理的に理解できるのだから。 そして、教育学の立場からすると、話者がヒラリーであり、姉の目を通して妹が描かれているとすると、次に作品解釈の作業として実在の人物であるジャクリーヌとここで描かれたジャクリーヌは大きな相違がないのか、あるとしたらどういう点であり、その相違はヒラリーのいかなる心理によってもたらされたものなのか、などが次の検討課題として出てくる。ここではその実際の相違点については触れないが、少なくともこうした実在の人物が描かれた作品の「作品鑑賞」としては不可欠の作業と言える。そしてそれらを総合的に理解していくことが、教育実践では求められる。 しかし、臨床心理学の立場からすると、作品解釈の意味は異なるのかも知れない。 なぜ少なからぬ臨床心理学者がこのクライアントの取り違えをしたのだろうか。教育は一般的に多数の人間(生徒・学生)を対象とし、教育の場面で語られている一人称はたくさんおり、一人称と二人称、三人称が複雑に絡まってコミュニケーションが成立しているのに対して、臨床の場面ではカウンセラーとクライアントが一対一で相対し、通常クライアントが一人称でずっと語り続けるというスタイルととっているからではないかということが考えられる理由である。 逆にいうと、臨床心理学の立場からすると、これは「取り違え」ではなく、二人の「悩める人物」がいて、それぞれの悩みと対しているということかも知れない。そして、題名のジャクリーヌの方の悩みにより強い関心が生じたということかも知れない。もちろん、不治の病にかかり、演奏家として引退せざるをえなかったジャクリーヌの後年は悲惨であり、大きな苦悩を背負わざるをえなかったのだから、ジャクリーヌの苦悩を問題にすることが検討違いというわけではないだろう。 しかし、教育学との相違でいえば、実際のジャクリーヌと映画のジャクリーヌがどのように違い、それがヒラリーのどのような精神から生じたかという問題は検討課題とはされないことになる。
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「慰安婦」問題 調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題 インドネシアにおける慰安婦調査報告Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識 2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり 3 日弁連弁護士のインドネシア訪問 4 法律援護協会への登録 5 兵補協会による慰安婦の登録 6 アジア女性基金の償い金に関する情報 7 インドネシア政府の態度 1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識 第2次大戦中、日本軍占領下のインドネシアで、多くの女性(インドネシア人、華人、オランダ人)が、日本兵の性的犠牲になったことはインドネシア社会では周知の事実であった。たとえば、1959年4月3日付けのインドネシアの新聞(Mestika紙)には、日本の賠償支払いに関連した投書が掲載されているが、その中で、日本からの賠償を本当に受け取る権利があるのは、日本の兵士たちの横暴の犠牲者になった人々であるとして、「聖戦を戦う手伝いのための売春婦として連れていかれた少女たち」のことに触れている。 筆者自身1980年から1981年にかけてジャワ農村で実施した調査の中でも、そういう女性のことはしばしば耳にした。それは、この村の○○の娘が、「学校へ入れてやる」と騙されて日本軍に連れて行かれ日本兵の女にされた、というような話である。 また、そのような女性を題材とした小説や映画は早い時期から作られていた。たとえば、1982年には「カダルワティ──5つの名を持つ女──(Kadarwati Wanita dengan Lima Nama)」と題するパンディル・クラナの小説が出版され、のちに映画化もされた。さらに1986年には「欲望の奴隷(Nafsu Budak)」と題する映画が制作・上演された。この映画はあまりにも有名で、そのため今でもマスコミ等では、「慰安婦」を象徴する代名詞としてしばしばこの「欲望の奴隷」という表現が使われるほどである。 性的な犠牲になった女性という場合、かならずしもすべてが厳密な意味での従軍慰安婦を意味するわけではない。非常に多くの女性が、特定将校の「女中」あるいは「現地妻」のような形で、専属的に性的な奉仕をさせられていた。そしてそのようなケースの場合、必ずしも「強制」によるものではなく、そのことにより本人あるいは家族に対し保障されるさまざまな物質的な利益を考えて、ある程度納得のうえでその道を選んだ者もいる。あるいは時には純粋な恋愛に近いかたちで関係が始まった場合もあるだろう。インドネシア社会では、そういったさまざまなケースと、厳密な意味での従軍慰安婦を、ほとんどの人が区別して理解していない。またわれわれが、いくらその区別を説明してもなかなか納得してもらえない。それがこの国での慰安婦調査の場合の最大のネックである。 いずれにせよ、その頃の小説や映画、あるいは人々の記憶の中では、このような日本軍の性的犠牲になった人々は、かつては「イアンフ」という明確な用語で認識されていたわけではなかった。この言葉自体はインドネシア社会ではきわめて新しいもの、つまり、1991年12月に韓国で名乗りを上げた元従軍慰安婦が日本政府に補償金支払いを求める訴えを起こし、いわゆる従軍慰安婦問題が国際的にクローズアップされて以来のことである。 2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり その当時たまたまジャカルタに長期滞在していた筆者の記憶では、この問題が大きくインドネシアのマスコミを賑わせるようになったのは1992年7月以降のことだった。1992年7月6日付けの全国紙「コンパス」が、「読売新聞」の記事を紹介し「日本軍が第2次大戦中、アジア諸国の女性を慰安婦として募集するにあたって、軍が関与していたという事実を証明する文書127点が発見された」と伝えた。次いで、7月7日の各紙に、「日本政府が6日、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア出身の元慰安婦に対する謝罪の意を表明した」と報道された。 さらに「コンパス」紙は、日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見されたと述べている。その4点とは、(1)南スラウェシの民政部(インドネシアの海軍支配地域を統括した日本軍の行政機関)第2復員班長から第2軍高級副官あてに提出された「南部セレベス淫売施設調査」(1946年5月30日)、(2)台湾軍がカリマンタンより慰安婦50人の派遣を要請した手紙、および台湾軍参謀長陸軍大臣の副官あてに、南方総軍から要請をうけて「ボルネオ行き」「慰安土人」50名を派遣するに際して台湾在住の日本人(慰安所)経営者3名の渡航許可を求める電報、(3)同じく慰安婦20名を追加派遣したい旨了承を求める電報、(4)ジャワ島スマランにおける慰安所運営に関する報告(「終連報甲1588号」1947年1月9日付け)である。 この頃連日、社説も含めて各紙が、日本が慰安婦問題で軍の関与を認めたという報道で賑わった。しばらくすると、インドネシア人もまた慰安婦問題の犠牲者になっていたのだとして、インドネシア社会から名乗り出る人々の証言が報道されるようになった。 7月12日に「コンパス」紙が、「インドネシアにもあった従軍慰安婦問題」として、2人の男性の証言を載せた。1人はジャワ島ソロ市在住のウィナルソ(Winarso。退役軍人で証言当時は州議会議員)氏で、彼は「ソロで起こった悲劇の証人になる用意がある」と名乗り出て、彼が商業学校に通っていた頃(1944-45年)、その隣り合わせの敷地にあったフジ旅館(オランダ時代のHotelRusche Gladag、実は軍慰安所として使われていた)で見聞きしたことを語った。彼はかねてからそこに住む女性たちに興味があったが、ある夜、学校の火の見櫓に登って、ホテルの風呂場の窓越しに、1人の女性と話す機会があった。それによれば彼女は「学校へ入れてやる」といって騙されてここへ連れて来られ、日本兵の相手をさせられているということだった。ちなみにウィナルソ氏はのちに、「朝日新聞」、日本電波ニュースの取材を受け、日本のテレビでも8月15日にそのインタビューが放映された。 もう1人は、西カリマンタン州議会議長のアリフ氏で、彼は16歳の頃、スマトラ島リオーのタンジュンン・パウの日本軍の宿舎で働いていた時、鉄道建設に携わっていた渡辺少尉指揮下の日本軍部隊のもとに慰安所があったと証言した。 その数日後、1992年7月17日に、「元慰安婦だったと認めた女性」と題して、4段抜きの大きな記事が「コンパス」紙に載った。前述のウィナルソ氏の証言をもとに、「コンパス」の記者が、当時ソロ市のフジ旅館で働かされていた女性を探し出したのである。カランアニャル県在住のトゥミナさんという女性で、彼女は料理人として働かないかと誘われてソロの町に出たところ、フジ旅館に閉じ込められて、他の女性といっしょに日本軍将兵の相手をさせられたと証言したのである(トゥミナさんとのインタビュー記録もあるので参照されたい)。これ以後さらに何名かの女性が、マスコミの取材に応じて自分たちの体験を語った。 ちょうどこの頃、1944年にスマランの収容所から連れだされて慰安婦にされたオランダ女性がいたことを記した記録を「朝日新聞」の記者がオランダで発見し報道したが、これを7月22日付けの「ビジネス・インドネシア(Bisnis Indonesia)」紙が報道している。ほぼ同じ頃インドネシアの雑誌『テンポ(Tempo)』のオランダ特派員もこの資料をオランダで見つけて、1992年7月25日号で9頁にわたる特集記事を組んで大きく報じた。 さらに『テンポ』は、同年8月8日号でも、12ページにわたる慰安婦問題の特集を組み、ジャカルタ、トラジャ、ウジュンパンダン、スマラン、バンカ島で慰安婦にさせられた女性たちの体験を紹介した(後藤乾一「インドネシアにおける「従軍慰安婦」問題の政治学」『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、237-240頁に詳細な証言が紹介されている)。またこの中で日本の海軍特警隊の禾(ノギ)晴道氏が書いた『海軍特別警察隊』という書物を紹介し、その中で著者がアンボン島で見聞した慰安所に関する記述を紹介している。 これらの一連の報道の中では、これらの女性を意味するものとして、「ジュウグン・イアンフ」、あるいはインドネシア語で「ワニタ・プンヒブル"Wanita Penghibur"」という新しい言葉が使われ、インドネシア社会に定着するようになった。従軍慰安婦自身、自分たちがこのような名称で定義されるものだということは、当時は知らず、報道によって初めて知ったのだった。 3 日弁連弁護士のインドネシア訪問 そのように、「従軍慰安婦」問題がインドネシアのマスコミに登場するようになると、人権問題でさまざまな闘争を展開していた法律援護協会(LBH)がこれに関心を示すようになってきた。そのような中で、1993年4月に村山アキラ氏を団長とする日弁連の弁護士5名(村山氏の他にイシダ・アキヨシ、ヨシ・マサアキ、ノガミ・カヨコ、岩城和代)が、「朝日新聞」の大村哲夫氏(個人の資格で)の案内で労務者ならびに慰安婦の調査に訪れた。彼らは訪問に先立って、法律援護協会と連絡をとり、調査の協力を依頼した。 この調査はあくまで、その年の10月に東京で開催予定であった戦後補償に関するセミナーのための事実関係調査を目的としたものであり、弁護士個人の資格で行われたものであった。しかしインドネシアのマスコミの中には、日本政府がいよいよ慰安婦の補償問題に乗り出してきたというニュアンスで報じるものや、あるいは日本の弁護士がインドネシアの元慰安婦の訴訟を援護するために来たという書き方をするものもあった。これに関しては、当事者から確認をとらず、法律援護協会関係者からの情報だけに基づいて書くというインドネシアの新聞記者の取材方法に大きな問題があったのであるが、いずれにせよ、この報道はいよいよ補償がもらえるのかという誤解を与え、その後何百人という元従軍慰安婦が相次いで名乗り出る契機となったのである。 こうして、日弁連の弁護士訪問時には、元労務者とならんで元従軍慰安婦と称する女性たちが法律援護協会に押しかけた。特にジャカルタと並んで一行の訪問先になっていたジョクジャカルタの支部ではそうであった。のちに慰安婦の補償獲得闘争の先頭に立つようになったマルディエム(日本名ももえ)さんも、この時(1993年4月26日)に名乗り出た1人である。一部の人には、日弁連の弁護士が直接面談したが、総数があまりに多く、全員に面会することができなかった。そこで法律援護協会ジョクジャカルタ支部は、名乗り出てきた人達にとりあえず名前、住所、日本時代の体験等を簡単に書いてもらっていったん引取りを願った。これが、法律援護協会によるいわゆる「登録」作業の始まりである。 ところが、この頃法律援護協会の本部は、日弁連の5人の弁護士の訪問中、彼らと直接話して、その調査目的が必ずしも訴訟の準備のためでなく、主として同年10月に行われる戦後補償のセミナーのための情報収集であったことを知り、警戒心を強めた。ブユン・ナスティオン氏は、4月23日、ソロで「日本人弁護士のグループは真剣に元慰安婦たちが日本政府に補償を要求するのを援助しようとしているのか、それとも自分たちの団体の利益だけを追求しているのか疑問である」として注意を喚起する発言をしている(「リプブリカ(Repbulika)」紙ならびに「ジャヤカルタ(Jayakarta)」紙、1993年4月23日付け)。 以下にみるようにこれ以後も登録を受け付けたのは法律援護協会のジョクジャカルタ支部だけであり、本部が関心をもたなかった背景にはこのような不信感もあったのかもしれない。 4 法律援護協会への登録 さて、ジョクジャカルタ支部では、その後も登録にくる女性が出現し、彼女たちへのマスコミの取材合戦が始まり、1993年度を通じて新聞紙上で女性たちの体験紹介が相次いだ。法律援護協会ジョクジャカルタ支部は1993年8月末で、とりあえず登録受付をいったん打ち切ったが、この時点で登録者は317人(ジョクジャカルタ特別州84名、中ジャワ州99名、東ジャワ州16名他)になっていた。それまでにこの事業に1150万ルピアの費用を費やしたという(「リプブリカ」紙、1994年2月28日付け)。ただしこの女性たちの登録は自己申告のみに基づくものであり、法律援護協会の側では特に認定作業や事実関係の調査を行ってはいない。しかも慰安所で働かされた厳密な意味での従軍慰安婦だけでなく、日本人の現地妻や日本軍将兵に強姦された被害者なども入っている。 法律援護協会ジョクジャカルタ支部のブディ・ハルトノ弁護士は、1993年9月に大統領、官房長官、外務大臣ならびに社会大臣あてに、労務者ならびに慰安婦の補償問題について政府の支持と助言を求める書簡を送った。 このように日弁連の弁護士のインドネシア訪問を契機に、慰安婦問題はいっそうマスコミの脚光を浴び報道が加熱したのであるが、このためにのちに、「それまでインドネシアでほとんど問題にされていなかった慰安婦問題が、日弁連の弁護士の訪イによってインドネシアにも持ち込まれた」という誤解が生じたほどであった。たとえば、すでにその前年7月に何度か慰安婦問題の報道をしていた「コンパス」紙までが、1996年11月16日の記事の中では、そのような認識を示しており、それに対して、ソロで最初に証言をしたウィナルソ氏が投書欄で反論する(「コンパス」紙、1996年11月28日付け)というようなこともあったほどである。また日本側でも現在一部にはそのような認識があり、慰安婦問題はインドネシア側から出てきたのでなく、日本側から「火をつけた」という誤解が強く残っている。 なお、この間(1993年8月)日本政府は慰安婦募集に際して「強制性」があったことを公式に認め、インドネシアの各紙もこれを報じた。 5 兵補協会による慰安婦の登録 法律援護協会ジョクジャカルタ支部による登録が、主としてジョクジャカルタや中ジャワ在住者を対象にして1993年から行われたのに対し、ジャカルタを含む西ジャワ方面における登録は、1995年になってから兵補協会によって行われた。兵補協会というのは、日本軍の補助兵として採用されたインドネシア兵(兵補)たちが、勤務期間中、軍事預金として強制的に給料の一部(おおむね給料の3分の1)を天引き貯金させられていたものを払い戻して欲しいという要求運動を展開するために1990年に結成された組織である。正式名を「元兵補連絡中央協議会」といい、最近までジャカルタ郊外のブカシ県ポンドック・グデ(PondokGede)にあるタスリップ・ラハルジョ会長の自宅を事務所にしていた。 兵補協会の説明によると、彼らが従軍慰安婦の登録をするようになったのは、かねてからこの問題に理解を示していた高木健一弁護士が、この協会の本部を訪れた時、「慰安婦の実態調査をしてみたらどうですか」と持ちかけたのがきっかけだという。そして、兵補協会の全国支部のネットワークを利用して1995年8月に登録受付が開始された。個人的データを書き込む特定の様式のフォームを協会側が用意し、そこに名前、生年月日、出生地、住所、日本時代の呼び名、1942-45年までの居住地の他、覚えている日本人の名を2名、日本人知人の名を1名記入させている。 ここでも厳密な意味の慰安婦だけでなく、日本軍将兵に強姦されたもの、特定の日本軍将校の現地妻にされたものなども含み、Wanita Selir(ジャワ語で妾の意)という広い定義のもとに登録を受け付けている。その結果現在、全国で19,573名が登録している(その地域別一覧は付録を参照)。同協会は1996年11月にこの全登録者名簿を2巻本に製本し、高木弁護士、インドネシアの内務大臣、政治・治安調整大臣(Men polkam)らへ送った。 兵補協会では、その中から一部の人々を抜き出し、日本軍政時代の体験に関する25項目の質問を記載した調査票を使ってより詳細な調査を行っている。これらの質問に対しては、aからdの4つの選択肢が用意されており、その中から選ぶという形式になっている。この調査は、バンドゥン支部のヘリ支部長が中心になって行われたため、データは西ジャワ地区のものがもっとも整っている。 6 アジア女性基金の償い金に関する情報 1995年7月にアジア女性基金が作られた当初、インドネシアのマスコミではこのことが大きくとりあげられることはなかった。また法律援護協会、兵補協会ともに、この基金の設立経緯や活動内容について正確な情報はほとんど入手していないようであった。1995年8月に筆者が法律援護協会の本部を訪れて、ブユン・ナスティオン理事長と会談した時、同氏は、要求項目としてa日本政府への謝罪要求、s日本の文部省に歴史の教科書の改定を要求、d慰安婦の記念碑建設、f本人ならびに遺族に対する補償の支払い要求の4点を出していた。しかし女性基金に関する言及はまったくなかった。 ジョクジャカルタ支部も同様であった。ブディ氏が女性基金のことを最初に知ったのは、1996年2月12日に彼の事務所を訪れたアジア・プレス・インターナショナルの虎松彩乃さんという日本女性の口からであったという(「コンパス」紙、1996年2月14日付け)。たまたま筆者は1996年2月から7月までジョクジャカルタに滞在しており、この間しばしば法律援護協会支部に足を運ぶ機会があったが、同協会の情報は、このようにここを訪れる日本の支援団体関係者の口から間接的に入るものに限られているという印象を受けた。 因みに同協会は、組織が一体となって慰安婦問題を扱っているのではなく、ジャカルタとジョクジャカルタとの間のコミュニケーションも限定されているようであったし、さらにジョクジャカルタ支部内でもスタッフの1人である弁護士のブディ・ハルトノ氏が、なかば個人的に元慰安婦の法的代理人となって活動をすすめていた。つまり法律援護協会は必ずしも一枚岩ではなく、ブディ氏が浮き上がっている様な傾向があり、ジャカルタの本部に届いている情報がかならずしもブディ氏に共有されていないというような状況がみられたのである。 ところで女性基金に関してブディ氏は当初「その資金は日本の市民によって、自発的ではない形で集められたものであるから、法律援護協会は政治的には拒否する。しかし人道的見地からみれば、すでに年老いている元慰安婦の人たちの状況に鑑み、受け取るだろう」と述べ、アジア女性基金の償い金を受け取るとも受け取らないとも態度を表明しなかった(「コンパス」紙 1996年2月14日付け)。 ところがブディ氏は、その後有光健氏らの招待でアジア太平洋の戦争犠牲者の集いに出席するため、1996年7月12日から22日にかけてマルディエムさんと共に日本を訪れた際、女性基金は政府が責任逃れをするために作った「まやかし」の組織であるという認識を持つに至り、これ以後償い金の受け取りを拒否する方針を明確にした。また、この時ブディ氏は、中国、韓国、台湾、フィリピンの従軍慰安婦たちとアジア女性基金の償い金は受け取らないと約束しあったという(「コンパス」紙、1996年11月16日付け)。 一方、兵補協会の態度は、これまでも法律援護協会に比べて、報道される機会が少なく、その主張は明確ではない。アジア女性基金の成立時期は、ちょうどこの協会が元慰安婦の登録を大規模に開始した時期とほぼ重なっているが、この頃女性基金についての情報をどの程度正確に関知していたかは不明である。彼らは現在なお補償金支払いを強く求めており、女性基金からの償い金も歓迎するという立場をとっている。しかしそれを公に発表する機会もあまりないうちに、後述のようにインドネシア政府が償い金の個人的受け取りを拒否するという方針に出たため、政府に逆らって何もできないというのが現状のようである。 7 インドネシア政府の態度 インドネシア政府は慰安婦問題に関し、日本国政府から何らかの公式発表があった時に、それに対する型通りのコメントをすることはあっても、それ以外には態度を明確に表明することも日本政府に要望を出すこともなかった。当初からインドネシア政府の態度が極めて"ソフト"であったことは後藤乾一も指摘している(前掲書、229-232頁)。1993年4月の日弁連の弁護士訪問時には、記者のインタビューを受けてインテン・スウェノ社会大臣は、「日本政府が補償をするなら、それは上手に実施しなければならない。不公平やお互いに損したというような形で行われてはならない」と答えている。しかも、その時大臣は、「元従軍慰安婦を探し出さねばならない」と語り、犠牲者たちが名乗り出ることを暗に奨励するような発言を行ったことがある。しかしそれ以外にはほとんど意見の表明はなく、そのことは結果的に、政府が積極的に慰安婦の補償獲得問題に対して、支持をしていないかのような印象を与えてきた。 たとえば、法律援護協会ジョクジャカルタ支部のブディ・ハルトノ氏は、この問題でしばしば大統領や社会大臣に書簡を送っているが、特に内容のある回答を受け取ったことはないという。また、慰安婦の代表としてジョクジャカルタのマルディエムさんら数人の女性が社会大臣に会見を求めてジャカルタへ行ったが、社会省ではBiro Hukum(法律問題)担当の職員に会えただけであった。これは政府が先頭にたって日本政府に要求をつきつけてきた韓国の態度とは対照的である。このような基本姿勢は、労務者問題、兵補の軍事貯金返済問題においても同様にみられる。 ひとつには、日イの友好関係に鑑みて政府がこの問題に正面から取り組むよりは、民間団体に任せた方が良いという考えがあったというが、しかし背後から法律援護協会や兵補協会の活動を支援するという姿勢さえもみられなかった。 筆者が1995年8月にブユン・ナスティオン氏から聞いたところによれば、この頃ジョクジャカルタで、インドネシア政府の社会省が代わって戦争の被害者に補償をせよという要求を出し、これに対して社会省は、(1)被害者たちの家を改装する、(2)被害者に年金を出す、という2点を約束したという。しかしこれらは今日に至るまで実施されていない。 そのような中で、1996年後半からアジア女性基金からの償い金の受け取りをめぐって、インドネシア政府は明確な方針を打ち出してきた。つまりインテン・スウェノ社会大臣が1996年11月に、「従軍慰安婦問題に関するインドネシア政府と日本政府の合意の結果として、3億8000万円(当時のレートで約90億ルピア)が10年間に支払われることになった。第1回目の支払いとして7億7500万ルピアが、ウンガラン(Ungaran、中ジャワ)、マゲタン(Magetan、中ジャワ)、ビンジャイ(Binjai、北スマトラ)、パレ・パレ(Pare-pare、スラウェシ)、クンダリ(Kendari、南スラウェシ)の6ケ所で、養老院など社会福祉施設の充実のために支出される」と発表したのである(「コンパス」紙、1996年11月15日付け)。 社会大臣によれば、インドネシア政府は当初から、補償金の支払いは要求しておらず、ただ日本政府が良い解決法を見つけてくれるよう求めていた。その背後にはインドネシア民族、とりわけ犠牲者たちの harkat(品質)とmartabat(尊厳、威信)を守るという意味があった、という。 この、個人に対する償い金は受け取らず、女性基金のお金は養老院建設のために使うという見解は、この段階ではまだ日本側の了解を得ておらず、社会大臣が一方的に発表した形だったので日本側を驚愕させた。しかしやがて、1996年12月22-25日にアジア女性基金は3人の代表をジャカルタに派遣し、社会省の担当者と話し合いを行なった結果、ほぼインドネシアの希望通りのかたちで両国間で決着をみることになった。そして、アジア女性基金の原文兵衛理事長は、1997年1月10日の記者会見で、インドネシアでは、個人に対する償い金は支払われず、養老院建設のために支払うという旨の発表を行った。 そして1997年3月26日に、橋本龍太郎首相が大統領にあてた謝罪の手紙が日本大使館を通じて届けられ、それを受けてアジア女性基金の山口達男と社会省のアスモロ次官の間でMOUが調印された。このMOUに基づいて、日本政府はアジア女性基金を通じて3億8000万円(約90億ルピア)を10年間にわたり拠出することになったのである。 インドネシアにおける慰安婦調査報告index